モルゴーア・クァルテット小野富士さん

モルゴーア・クァルテットのヴィオリスト、小野富士さんに楽器をみていただき、お褒めの言葉を頂戴しました。嬉しい。
有意義な話もたくさん聞けて、実に充実した時間でした。

ヴィオリストとしても素晴らしいのは言うまでもないんですが、話がすごく上手で、淀みなく話されるのに口調が穏やかで押し付けがましくなく、話に自然と引き込まれる。
ほとんど全てのエピソードを○年○月○日に…」と年月日つきで話されるのにも驚いた。どういうインデックス能力なんだろう。すごく頭の良い方なんだと思いました。

おのふじさん、本当にありがとうございました。

412mmのヴィオラ、絶賛販売中です!

演奏動画はInstagramにて公開中

  

ヴァイオリンという楽器は、寸法の違いが大きいと演奏に支障をきたすので、だいたいが同じようなサイズで作られ、大抵の人には一見どれも同じような「ヴァイオリンの形」に見える。でも実際には皆それぞれが作り手の個性を反映した顔だちで、表情も実に豊か。

細部の作りも顔だちの印象に大きく影響していて、パフリングと呼ばれる象嵌のツノ部分などは作り手の好みが存分に反映されるところ。

Poggiはこの先端部の黒い部分を伸ばすのが特徴的で、il baffo (口髭)と呼んでいた。Saviniはここが長すぎるとil baffo messicano!(メキシコ人の口髭!)と言って短めのbaffoが好みのようだった。

僕も15年くらい前まではメキシコ人の口髭が好きでしたが、最近は段々短めのヒゲが好みになってきています。

ぱっと見同じように見えるなかに、自分の好みの味を表現できるのは作っていて実に楽しい部分。

  

明けましておめでとうございます。

自分の足もとを見失わないよう今年もコツコツやっていきたいと思います。
元旦は自宅から初日の出を拝み、昨夏からひょんな事からはじめてすっかりハマってる習字で書き初め。
木を削るのと、字を書くのはずっとやっていられる。

今年もよろしくお願いいたします。

  

ものすごく制約の多い年だったことで、人に何かを伝えることの大事さを改めて実感した一年でした。コロナ以前から工房に閉じこもって木を削る日常はあまり変わっていないのですが、来年はもう少し視線を外に向けて能動的に仕事をしていきたいと思います。

仕事納め。

  
Ivry Gitlis
クリスマスの訃報。
最後の巨匠、Ivry Gitlis 。
楽器を構えると彼にしか作れない圧倒的な空間が広がった。2004年だったと思うが、東京文化会館で文字通り震えがくる演奏を聴いた。
彼の音楽に触れられたこと、2009年に楽器を見てもらえる機会を得、言葉を頂けたことは本当に大きな財産になった。
合掌。
  

名の通った、いわゆる銘器と呼ばれる類の楽器の修復をして板の厚さなどの計測をすると、現代の製作セオリーから大きくかけ離れた作りになっていることが少なくない。それで音が良いのだから「現代の製作セオリー」って何?と思ってしまう。

ここで言う製作のセオリーとは20世紀になって著名なストラド研究者などによって形作られ、広く流布している楽器作りのメソッドで、現代の製作家は大なり小なりこのメソッドの提唱する工法や寸法に影響を受けていると言っていいと思う。

こういうセオリーが広く知られることで、多くの人に楽器作りへの門戸が開かれたという意味は大きいと思うのですが、実際に楽器を作っているとそういう決まり事がいい楽器を作る上で必ずしも助けにならないという思いを抱くことが多々あります。

Poggiは工法上理由があってそのメソッドを無視している作り方をしている部分がいくつもあるのですが、セオリー通りになっていない、という理由で修理され、オリジナルが失われてしまっているケースが少なくない。それは残念なことです。

優れた製作家が良い楽器を作るために突き詰めていった手法が、その人なりのセオリーを形作るのであって、何故そうやって作るのか。という洞察や理解があってはじめてセオリーが意味のある道標になるんだと思います。表板は何ミリを基準とすべし、と示されると分かりやすいですが、数値や形だけの寸法表などにはあまり意味がない。

Saviniもよく「寸法をなぞるな。数値は数値でしかない。」とよく言っていました。ぱっと見不可思議な寸法や作りに見えても、そういう作りにこそ作り手の思いや経験の結晶が宿っているのではないか。

何故こうなってるのかわからないが、音はいい。という銘器の作りを見て、そんな風に思うのです。

  
アップが遅くなってしまいましたが、今月初めにヴィオラ完成しました。
ヴィオラはヴァイオリンと比べてサイズの幅がある楽器で、いくつかの型を使い分けていますが、この412mmというサイズは自分がイメージするヴィオラの音を一番再現しやすい気がしています。(残念ながら標準的な日本人の体格では持て余すことがあるギリギリの大きさかも、という感覚はあります)
豊かさと力強さを兼ね備えつつ、朗々と唄える良い音が出てます。
弾いてみたい方は是非ご連絡ください。
Worksに写真をアップしています。
  

久しぶりに作っていたヴィオラが白木の状態で仕上がりました。

最近作った楽器を見比べているとだいぶ自分の楽器の顔ができてきた気がします。

良い作り手の楽器は例外なくその作り手独特の楽器の顔があります。現代の製作家は過去の名匠の楽器をモデルに製作することが多いですが、Stradivariを意識して作ってもPoggiの楽器はオリジナリティあふれるものだし、そのPoggiを敬愛していた師匠Saviniの楽器もよく似てはいるけれど、Poggiとはまた違う顔があります。

Saviniがよく「大事な基本は全て教えた。これから先、お前はお前の道を行け」と言っていました。誰かの真似をするのではなくて、自分の楽器を作れ。という教え。

20年近くそういうスタンスで作ってきて、気づいたら自分の楽器の顔がなんとなく見えてきたかな、と最近思っています。

  

10年近く前に製作した楽器のオーナーさまが定期点検で来訪され、お預かりしている間に許可を得て楽器を撮影させていただいた。

なにぶん一眼を使いはじめて9年ほどの間、写真は自分にとってごくごくプライベートな楽しみであって、第三者に見せることを意識して撮影することはほとんどなかったので、先日の新作の撮影以来色々と試行錯誤な体験が楽しい。

自然な光が生み出す一瞬の煌めきや表情を捉えるのも写真の醍醐味と思いますが、ストロボを使うと光を操ることの難しさ、奥深さもまた計り知れないなあと思います。

あまり深く考えていなかったのですが、実際に撮影してみると、見られることを意識することはより美しいものを作りたい、というモチベーションにつながることにも気づかされました。次はここをもっとこうしたい、という欲が溢れてきてよい形で次に繋がりそうな予感。

久しぶりに再会した楽器は随分長いこと弾いていただいているうちに、本当によく鳴り、表情豊かな音になってきていて、自分でもよいものを作れている手応えはあったのですが、楽器として一段上のステージに上がっていくにはやはり弾き手に育てていただくというプロセスが不可欠だなあ、と実感。

手放しで喜べないのは楽器がよく鳴るようになってきた一方でウルフ音(共振音)が出てきていること。ウルフはよく鳴る楽器の宿命などとも言われますが、奏者にとってはそんな悠長なことを言っていられない障害になることも少なくないので、今後この難題とどうやって向き合っていけるか、時間をかけてできることを試させていただこうと思っています。

写真はWorksに掲載しています。